海洋性の昆虫について(「深海キリギリス」推敲ノート)
生命は海から生まれた。
動物も植物も。
海から生まれた生き物たちは進化の過程で陸上に上がり、再び海に帰ったものもいる。
ウミヘビやウミガメなどの爬虫類。
クジラやイルカなどの哺乳類。
そのようにして海には沢山の生き物が暮らしている。
だが海には両生類はいない。これは意外だ。両生類といえばカエルだ。海カエルのような生き物はいない。
昆虫もいない。
これはもっと意外だ。
人間は地球を自分たちのものだと考えているが、昆虫の方が遥かに個体数が多い。
世界中のアリと人類の個体数を比べてもアリの方が多そうだ。
そして広範囲に暮らしている。
見方によれば昆虫たちが主役の惑星に人間たちが好き放題に間借りしているようにも思われる。
にも関わらず。
昆虫がこれだけの個体数や多様性を誇るにも関わらず海に昆虫がいないということは実に意外だ。
蟹などの節足動物はいる。だが、それらは元々海にいた生き物で陸上から帰った訳ではない。
陸から海に帰った、とか。昆虫と節足動物の違いなんて人間の勝手な分類学とセンチメンタリズムでしかないかもしれないが、僕はそこに神秘を感じて止まない。
昆虫が海に帰ることができなかったことの学術的な考察は専門家先生に任せるとして、センチメンタリストの僕としては昆虫が海に帰っていたらどのような進化を遂げたのかというロマンチックな夢想に思いを馳せたい。
海洋性の蝶々が海流に身を任せて花弁のように舞い散る姿を夢見たい。
短編小説「深海と作成中の短編小説」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/naf937ba19e4f
第三の選択肢(短編小説殺人するか心中するか其れが問題だ跋文)
選択肢があるということ。
昼食を食べようと食堂に入った。
ランチを注文しようとするとAランチとBランチがあるようだ。
AとB、どちらにしようかと迷う。
AとBのどちらかで迷っている人は気付いていないが本当は選択肢はもっと沢山ある。
ランチ以外のメニューもあるし、この店を退店する選択肢だってある。
本当は無限にある選択肢を見つけられる人は少ない。
そんな話をテーマに短編小説を書いた。
タイトルの「それが問題だ」とはシェイクスピアのハムレットからの引用である。
「なすべきかなさざるべきかそれが問題だ」
劇中ハムレットの選択肢は明確に2つである。
先王を暗殺して后を奪った王を弑するべきか、せざるべきか。
亡き先王が暗殺者を糾弾する。
復讐せよ、と。
復讐すれば妃である母が悲しむ。国が荒れる。復讐せねば義に反する。
どちらの道も悲劇である。
それならば「すること」「せざること」の以外に選択肢を見つけられないだろうか。
王を追放する。
自らが国を出て新たな国を作る。
超長期的に取り組む。
そう言ったするとせざるの間や外側にも選択肢はあるのだ。
短編小説の主人公は妻を殺そうと思っている。同時に自分も一緒に死のうかとも思っている。
突き付けられた選択肢に囚われることなく、最上の選択肢を見つけることはできるだろうか。
殺人するか心中するかそれが問題だ|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/na4c5be775629
細胞膜に身を包むということ(現代詩エンベローブ跋文)
ウイルスはタンパク質から作られた膜を持つエンベロープウイルスと、膜を持たないノンエンベロープウイルスがいる。
アルコールはエンベロープタイプの皮膜を溶かすので不活性化に効果があり、ノンエンベロープのウイルスには影響を与えないと言われる。
ノロウイルスなどのノンエンベロープはアルコールで消毒できないということが長らくの常識だったがアルコール製剤の中にはノンエンベロープに効果のあるものが見つかったり、
ノンエンベロープなのに、宿主の細胞膜を利用してエンベロープを作ったりするウイルスが見つかったりと日々常識が覆る。
誰かの中で自らを膨らめて
湿潤の細胞膜に身を包む
更にはその細胞膜を
自らのものにして
同一化を図ろうという
ウイルスの所業は
なんとロマンチックなことだろう
現代詩「エンベロープ」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/nc823a34299aa
恐怖についての雑感(伝承異聞 自動車跋文)
怪談を読みながら、一体恐怖の正体はなんだろうと考える。
例えば一人で車に乗っていて、ふと気付くと助手席に誰か乗っている。そんな目にあえば怖いことだろう。
これは何処からが怖いんだろう?
車の運転は怖くない。
助手席に見知らぬ「物」があっても多分怖くない。例えば信楽の狸が置かれていても怖くない。
それが人なら怖い。
多分虎が乗っていても怖い。
おばけでも怖い。
猫は多分怖くない。
カピバラも怖くない。
以上から考察を加えると、自分の身の危険が恐怖を呼び起こしているような気がする。
街で見知らぬ人に擦れ違っても怖くないが、見知らぬ人が突然部屋の中にいれば怖い。その誰かが乱暴するかもしれない。
突然部屋にいるような非常識、非現実の輩なら危害を加えるような理不尽も為すかもしれない。
なるほど。
身の危険を感じる話。
トイレ、車、お風呂、階段、廃墟と怪談は人が無防備になる所に多く発生する。それも危険にまつわる感性かもしれない。
ならば他に怪談の生まれそうな場所や設定がありそうだ。
身の危険も生命の危険でなくても、仕事上の危険やパソコン関係の危険など、リスクはあちこちに散在する。
例えばパソコンが突然初期化するなんてどうだろう?これはかなり怖い。
でもパソコンを扱わない人から見たら怖くないのかな。
高級な指輪を無くすなんて話も怖いかどうかは人それぞれだし。
伝承異聞「自動車」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n4242a154a934
短編小説「ルーム」作品解説
短編小説「ルーム」を読まれた方は意味が分かりくくてモヤモヤするかと思いますので、ネタバレを書きます。
全くもって蛇足です。
書く人が解釈を読者に預けられずに、自ら冗長に語ることって良くないことと思いますが、
この小説を読む人は世界中で10人いるかどうかだし、ましてや読んで尚且つこのページにたどり着く人は皆無だろうから、
まあ良いか。
ネタバレは以下です。
→小説はこちらのリンクからどうぞ。
https://note.mu/murasaki_kairo/n/nfe9e6afc17a8
「解説」
女の子の語り口調でお話が進んでいきますが、話が進行するに連れて現実と不整合を起こしていきます。
不整合というのは突然、女の子の部屋に現れる不審人物たちのことですね。女の子がすぐに追い出してしまうので事なきを得ていますが、見ず知らずの人間が部屋に突然現れるのは非現実的です。
そして最大の不整合が別れた彼氏がおじいちゃんになって帰ってきたこと。
彼氏がおじいちゃんなら、女の子もおばあちゃんになるはずですが、年を取ったように見えません。
つまりこの女の子は既に人間ではないのです。彼氏と別れてから女の子は死んでしまったのでしょう。死んで部屋に取り憑く御霊となって、平和に暮らしています。
死んだ自覚は無いようですね。
部屋に現れる人々は正式に部屋を賃貸した人々だと思いますが、女の子に追い出されてしまいます。可哀想ですね。
そこに現れたのが年老いた彼氏です。
もしかしたら問題物件であることを知っていたかもしれないし、察しがついていたかもしれません。
女の子が御霊となってここに残っていたことを知ります。
そして二人は元通り一緒に暮らし始める訳です。ハッピーエンドというわけです。
これが、このお話が意味するところの半分。もう半分のトリックが隠れていますが、そちらの方は大したお話ではないので説明は割愛します。
もしこの文書を読まれた方がいたら駄文へのお付き合いありがとうございました。
猫と翼について(猫だって翼があれば飛べる跋文)
猫と翼について
翼のある猫の写真を見たことがある。およそ飛べそうな翼ではなかったが。
もしかしたらフェイク写真だったかもしれない。
黒い猫だった。
そう言えば「虎に翼」なんて諺もあった。
意味合いは「強くなり過ぎる」。
虎のために翼を作ることなかれ。
危険な虎に翼を与えれば最悪の事態となる。虎にとっても強くなり過ぎれば恐れられ誅せられる。均衡を崩す力は双方に不幸となる。
猫に翼はどうであろうか。
中島みゆきの「あした」という歌がある。そこに出てくる猫はみすぼらしい痩せっぽっちの猫である。どちらかと言えば猫は捨て猫とか子猫とか弱いもののイメージがある。
雨に打たれてボロボロになった野良猫は人知れず死んでいく。猫の生活圏は広いようで狭い。縄張りがあるので弱い猫はどこに行っても疎んじられ追い出される。
もし猫に翼があれば、そのようなどん詰まりから抜け出して明日に向かって飛べるのに。
でも猫に翼はない。
飛べないし何処にも行けない。
猫だって翼があれば飛べる|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n9db5e931586d
私性と俳句(俳句日記「初詣」跋文)
「初詣 僕たちは同じものを見ている」
「私」が詠まれる俳句はあまりないように思われる。
(冷たい)などの感覚や(うれし)などの感情は詠まれる。
だが、私や僕など一人称を使う俳句はない。
俳句の視点がそもそも「私」を中心に展開しているからで、それは「私」が「私」自身を見つめることができないからであると言える。
そう言った意味合いも含めて俳句はカメラ的である。
「私」がファインダーを通して見る写実の中に情緒がある。
ところが写真のあり様が変わってきた。ファインダーを通して「私」がいる。自撮りと呼ばれる。
ならば逆説的に「私」を取り扱う俳句が増えても良いわけで、俳壇からは縁遠いとは思われるがそのような風潮が現代的であると言える。
俳句日記 初詣|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n81eebf05b9a9