ムラサキの文学日記

短編小説、現代詩、俳句、短歌、随筆

凶暴〜庭に咲く小さな花の正体

「僕のフィールドノート 庭草の話」 

 

■序文

我が家の庭に名も知らぬひさき花が咲く。

真っ直ぐと細き茎が立ち風に揺れる。その先端が五つ六つに分かれて其々に白き花が咲いた。夏になる前に花の季節を迎えて、それは初夏の風に涼し気に揺れた。夏になって花は落ちたが、柔らかな針金のような草は残った。

秋になってまた花が咲いた。

やはり小さな花である。

可憐とはこのようなものであろうか。

花の大きさは小指の爪ほど。小さくて近くに寄らなければ花にも気付かぬ。飾りに派手なところがない。しかし、花弁の中には黄色い雌しべと雄しべを有して、確かに花である。

眺めて愛でて、図鑑を調べしが、見つからず。

僕はこの花に水をやったり、風から守ったりと大切にしていたら実が生った。即ち種子である。子孫を残すための美しき機構。

花が種を宿すとはなんと美しい事なのだろう。種子は安穏と地に落ちて、発芽し、新たな株となり。我がちひさき花は斯様にして庭に少しずつ殖えていくのであった。

 

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「僕はいずれ庭にこのちひさき花の花畑を作らふ。」

この花はちひさくて主張は弱けれども、嗚呼、僕は野の花に囲まれて暮らしたし。

 

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■事の起こり

 

などと、花の前に座して日向ぼっこをしていたメルヘンな午後。

日曜日であった。

このちひさき花の名前が俄に判明する。

 

外部リンク 「 ハタケニラの恐怖 :: norari-kurari 」

 

「ハタケニラ・・・の恐怖・・・?」

ハタケニラとは聞いたことのない名前であった。
早速Wikipediaで調べてみる。

 

本種は花から種子を形成する他に、地下茎に鱗茎を形成し、繁殖する。特に鱗茎による繁殖力は驚異的であり、しばしば害草として扱われる

 

「害草…??」とな?

小首を傾げつつ、僕は続きを読むのであった。

 

繁殖と駆除

本種は繁殖力が非常に強く、一端侵入を許すと駆除は困難となる。その主な原因は、地下茎に大量の鱗茎を形成することにある。この鱗茎1つ1つから容易に再生し数を増やすため、雑草として処理する際にはこれを全て回収しなければ、いずれ再生することになる(地上部を刈り取っても意味が無い)。また、この鱗茎は1粒が小さくポロポロとこぼれやすいので除去の際に飛び散りやすく、下手に除去しようとすると大繁殖を許してしまうことになる

こうした性質から、特に農地での影響は深刻であり、農業に従事する者からは強害草として忌み嫌われる。Wikipediaより)

 

要約すると地下にある鱗茎が増殖して、大量に繁茂する雑草。という趣旨のことが書かれている。迂闊に除草を試みるともっと殖えてしまう?

もしかして。

ちょっとコレは不味いのではないか。

そう、事態は大変不味い。

可憐な小さき花などと言っている場合ではなかった。

「いずれは花畑」等と脳髄の湧いたことを言っている場合ではなかった。

我が家の庭は人知れず危機に瀕していたのだ。

 

■正体が知れる

もはやハタケニラなる極悪植物の侵略は我が庭に確実に広まっている。驚異的な繁殖力。

道理で何もしないのにモサモサ増える訳だ。日を追うごとに一株一株、増えていく。それを可憐な花の健気と、受け取っていたが、大間違いである。思い返せば其れが、この植物の特徴であり、悪意ある侵略のはじまりであったのだ。

この時の僕の感情を端的に表せば、即ちそれは恐怖である。

僕は忘れていたのだ。

園芸(庭いじり)は自然との戦いである、と。

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ほら、見てご覧。

モッサモサである。

こんなのが、いつの間にかいくつも株を作ってしまった。その中には一際巨大に成長した株だってあるのだ。そいつはもう森林のように物凄いことになっている。

 

その群生はWikipedia曰く、「抜くのに失敗して鱗茎が飛散し、爆発的に増えてしまった」ハタケニラなのだ。ことごとく駆除に失敗すれば、どの株も森林の如くに巨大化するのだ。

僕は改めてハタケニラに恐怖する。

 

 

■駆除を決意

日曜日の正午である。

僕はお昼ご飯にカレーを温めて食べようか思っていた。お米も炊けているし、後は盛り付けるだけなのだ。穏やかで安らぎの一時である、本来ならば

 

だが、僕は安らいでいる場合ではない!
断固として自然に闘わねばならない。種の存続を懸けねばならない。

ハタケニラが勝つのか、人間が勝つのか。僕は戦わなければならない。

つまり、駆除だ!

いつやるの?

今だよ!

人間よ、庭を守れ。

断じて、いま立ち上がるのだ!

 

駆除開始

僕は外に出てやおら草を掴み、ハタケニラの奴めを引っこ抜こうとした。

張り巡らされた根茎につられて土がめくられる。

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(引き抜きやすくするため、水を撒きました。)

これだ!諸君、見給え!

土から出てきた鱗茎を!

今にも零れ落ちようとする小粒な鱗茎の群体を。
ひとつひとつが命である。
種の存続の意志である。
即ち我が庭に対する攻撃である。

なんという凶暴!

そして強壮の意思!

 

こんなものが全て発芽したら我が家の生態系はすべからく滅ぶ!

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我が庭を守るのは我である。
小さな極悪は
許さじ!

 

そして。

とりあえず抜いてみた。

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土の中に沢山の鱗茎が零れてしまった!

こいつら難なく分散しやがる!

一大事だ!

一粒たりとて落としてはならぬ!

対処は如何に!

 

ここで園芸指南書は曰く。

落ちた鱗茎には必殺「テデトール」で対処すべし!

 

■テデトールとは

解説しよう!

園芸人の必殺技「テデトール」とは!


園芸に仇なす敵をすべからく

「手で」!

「取る」!

のだ!

(他に園芸用語として「フミツブース」、「ダンナヨーブ」などの亜流技がある。)

 

これ全部拾うんですか?

指南書曰く。
「拾って下さい。増えちゃうから。」
 

ボロボロにこぼれ落ちた鱗茎をとにかく拾う。
一粒でも残せば、其れが発芽し株となる。
つまり殲滅しない限り、増えるのだ、彼らは。

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 (拾われた鱗茎)

とりあえず拾いました。

しかし、全部拾い切ったかどうかは不明。

だって小さいし、土に潜ってしまえば何処にあるのか、もう分からない。

 

 斯様にして、僕はようやく一株を駆除したわけだが。

庭を見渡せばハタケニラは他に二十株ほど生えている。

もう、手遅れではないだろうか、これ。

 

パニック映画の絶望シーンのようだ、と僕は思う。

凶悪な怪物に仲間が何人も殺される。もう全滅かもしれない。
それでも主人公たちは力を合わせて怪物に打ち勝った。
満身創痍である。もう一歩も動けない。

しかし、怪物は一匹ではなかった。

主人公が見たものは夥しく巣食う怪物の群れ・・・。

 

僕は目を細めて庭の其処此処に咲いた、白きちひさな花を眺めていた。

 

■最凶伝説

つまり、ハタケニラは抜かれた時に「鱗茎の子ども」を飛散させてしまうと、

それらがそれぞれ発芽をし、爆発的な増殖をする。

「鱗茎の子ども」の数は多く、抜き方がずさんだと、20倍くらいに増える。

だからと言ってこれを放置すれば、種子が落ちてそれぞれが発芽して、やはり新たな個体に生長する。

地下からも、地上からも増殖する術を持つ最凶の雑草である。

 

ましてや発芽したばかりのハタケニラは草の構造が弱く、抜こうとするとすぐに千切れる。そしてハタケニラの本体たる鱗茎は地下に残る。つまり、彼らは地下で易々と増大するのだ。

生えてきたハタケニラに対して、小さなうちに土を掘り返して駆除するしかない。

 

なんて嫌な草なんだ。

少しでも愛でていた自らを悔悟する。

時間よ戻れ。

 

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とりあえず抜いた株を洗ってみた。

主の鱗茎の周りに小さな鱗茎がくっついていることがわかる。
茶色く成熟した鱗茎は既に零れ落ちた後である。


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アップしてみた。見れば見るほど凶暴である。

 

だが僕は。

 

彼らの持つ必死さ、つまり、計り知れない程長久の年月をかけて構築された生命の機構に、僕はつい心を奪われるのだ。

 

庭の主として僕は失格かもしれない。

 

この白き球根に憎たらしさを感じつつ、尚その美しさに魅了される。

それは生命に対する憧憬の一形式であるのだ。


まずは彼らに称賛を送りたい。

生命の畏敬を称えたい。

 (全部駆除はするけれどね。)

僕の庭ではなく、また何処かで。

心置きなく殖えるがいい。

いずれまた会おう、どうかそれまでお元気で。

 

 

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■終章

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小さな白い花に注意されたし!

あなたの庭に知らぬ間に飛来した種子は、

あなたの庭を侵略する脅威かもしれません。

 

というお話でした。

今回は10株程抜いて残りは来週。

結局鱗茎をこぼさないために周囲の土ごと捨てなければならない。

これでは庭に土がなくなってしまう。正直、困った。

 

 

■おまけ

 

こんなに増えるのなら、せめて食べられれば良いのにね。

名前もハタケニラだしさ。

 

園芸指南書「ハタケニラには毒があるらしいよ?」


人間にとって何処までも嫌な草である。

 

(「僕のフィールドノート 庭草の話」村崎懐炉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サツキとツツジ

歳時記を見ても「さつき」「つつじ」が見当たらない。

旬を先取りするのが俳句の粋である。遅れた季語は野暮ったい。

この5月なら初夏の句を爽やかに詠みたい。それが晩春じゃいけない。無粋である。

 

改めて調べてみると歳時記では表記が違う。

「さつき=杜鵑花」

「つつじ=躑躅

の漢字が使われていた。

 

字が難しくて目が痛い。

鵑とはホトトギスのこと。

杜鵑(とけん)もホトトギス

杜鵑花(とけんか)で「さつき」、となる。

 

つつじの

躑は躑(たちもとお)る、躑(しゃが)むと読むそうだが、小拙、恥ずかしながら

「たちもとおる」という日本語を初めて耳にする。動詞だと思うが想像がつかない。故に再び辞書をめくって言葉の舟旅。

 

(検索しています。暫くお待ち下さい。)

 

言葉の旅は予想外に難航したが結論から言えば「たちもとおる」とは古語であった。

たちもとほる。漢字は「立ち徘徊る」、「立ち廻る」と書く。

 

意味は行き悩む、徘徊する、ウロウロする。

 

そして「躑躅」の「躅」の訓読みは

躅(ふ)む。意味は足踏みすること。

 

音読みで「躑躅」は(テキチョク)。「躑躅(テキチョク)」自体が熟語になっていた。意味は少し歩いて止まること。因みに「行」の字を彳とつくりに分けてそれぞれ一字の漢字としても(てきちょく)と読むらしい。(※お暇な方はテキチョクでネット検索されたし)

 

ここまで調べてかなり頭が痛くなったので

気分転換に花の画像をネットから転載する。

 


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さつき



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 つつじ

 

薄々感じてはいたけれど違いが分からん。

仕方なくSurfing' NET againである。

 

(検索しています。)

 

サツキはつつじの一種。サツキツツジというらしい。

咲く時期が異なる。

ツツジは4月、サツキは5月に咲く。

葉が出るより花が先に咲くのがツツジで、葉が出るのが早いのがサツキ。

 

ツツジ属は小ぶりの春葉と大ぶりの夏葉がありツツジが開花しているときの葉は春葉。サツキは夏葉が出てから開花する。したがってサツキの開花の時期にはツツジに比べて葉が大きく見える。

 

なるほど。

花の形を見ても違いが分からない訳だ。葉の大きさで見分ける。花であって花に着目しないことが頓智クイズみたいだ。ふふ。

 

暫く休んで余裕が出てきたので話を戻すが、躑躅(立ち止まること)の名前は立ち止まるほどに花に艶があることに因むのだろう。

趣深い名前である。

 

先にお示しした写真はネットの拾い画像であるが、先日ヤマツツジの写真を撮ったので掲載する。


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山道の木下闇にヤマツツジが咲いていた。

思わず振り返る美しさであった。

 

立ち止まる花。

 

名前の由来に大いに納得をする。

ツツジは晩春の季語ではあるが、かような景色を見て猶、季節を逸したからと詠まぬは無粋。詠まずにおれぬ景色である。

 

「山躑躅 半身探していづこ」村崎懐炉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユリイカ201805号「今月の作品」で佳作を頂いたこと

ハガキ職人の村崎です(笑)

すっかりブログはご無沙汰になっておりました。詩と評論の文芸誌「ユリイカ」の「今月の作品」に毎月投稿をしております。

 

この度、投稿した詩に佳作を頂きました。ありがたいことです。選者をしておられる水無田気流先生に拙作を過分に評価して下さったこと深く感謝いたします。

 

また日頃ブログで温かに交流して下さる皆様にも同じく感謝を尽くすところでございます。

 

 さてこれまでに評価された二作から「詩の何たるか」が見える気もしますので今日はその概略についてお話します。

 

少し長いお話です。単なる独り言ですので、読み飛ばして下さって結構です。

 

「詩のなんたるかについて考えてみた話」

評価を頂いた二作(「トイレタンクから水がチョロチョロ」「春の海/シーグラス」)はどちらも「日常」がポエジーへと転移していくことで、詩となっていたように思われます。

 

今回の作品「春の海、シーグラス」の中で「私」は海でシーグラスを拾います。シーグラスは単なるガラスの摩耗品です。しかし私はそれを北洋の女の子の涙が魚となって泳ぎ着いたものだと空想しました。

ガラスの摩耗品が、ポエジーに転移したわけです。「喩え」の発見が詩の誕生に繋がったわけです。

 

これは「詩の役割」であると言えるかもしれません。

例えば野辺に生える変な形の草に「蕗」という名前があることを知り、煮浸しにして食べられることを知り、更に醤油と砂糖で煮詰めて伽羅蕗を作ることを知り…。事象の持つ意義や意味を自然科学的に深めていくことで人生は豊かになります。蕗を食べることを知っているか知らないかで春の楽しみは大きく変わるわけですからね。

 

人文科学の分野でも人生を豊かにすることができます。蕗の形から、その下で雨宿りをする小さな人を夢想し、事物の新たな意味を作ることができます。そんな空想を楽しむことで人生を豊かになります。

そんな小さな人たちを夢想すれば、蕗を見る度に楽しくなりませんか?

 

詩の働きは「蕗」の下にいる小さな人を読者に見せることにあるのではないでしょうか。その読者が今後、蕗を見て少し楽しくなることが詩人の務めなのかもしれません。

 

彩りのない日常を異なる角度から眺めて修辞していくことで薔薇色の日常として再構築していこう。二回目の佳作を通じて、そのような詩論を考えてみました。

 

サン=テグジュペリの星の王子様にもありましたね。

 

「この絵は何の絵に見えますか?」と。

その挿絵は不格好な帽子の絵にしか見えません。でも本当はその絵は象を飲み込んだ恐ろしい蛇の絵なのです。そのような空想力の発見に触れると、もうそれが恐ろしい蛇の絵にしか見えません。

「それでは星は何に見えますか?」

「小さく瞬く星のどれかに星の王子さまがいて小さな不安と喜びを繰り返しながら毎日を暮らしているのです。」

そう思うと星を見ることが楽しくなります。

 

そんな空想の発見を促すような詩をまた書いてみたいと思います。

ユリイカで佳作を頂いた御礼に代えて「詩のなんたるか論」村崎カイロ)

 

末尾に

長い独り言を読んでくださったブログの皆様に重ねて御礼申し上げます。今後とも宜しくお付き合い下さい。

 


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現代詩「春の海とシーグラス」|ムラサキ|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/na8e007cb121f

ベニカタバミの塊根について

こんにちは、詩人の村崎です。

今日は我が家のお庭の話です。

この記事を書いた後にも少し調べ物をしまして理解が深まったので追記しております。

(初出20180331 追記20180331)

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新居に移り初めての春である。

 

庭の雑草を抜いているが、小さな三つ葉の雑草が抜けなくて困っていた。

抜こうとらするとブチブチ切れるので地下の根が残ってしまう。

困ったなあと思っているうちに庭がすっかりこの三つ葉群に支配されてしまった。

そもそも、これは何だ。と腹立たしく思っていると我が家の小さな妖精が「これはカタバミだ」と教えてくれた。

なるほど「カタバミ」か。

だが、我が家のカタバミは明らかに二種類いる。一つは葉も根も弱々しく抜こうとするとすぐに千切れて抜けない奴。如何にも雑草である。

もう一つは葉が肉厚で豪壮。前者に比べると丈夫である。

これは一体どういうわけか。種類が異なるのか、それとも雄株や雌株のような性別があるのか、謎である。

小さな妖精に尋ねたが、「知らない」と言われた。そもそもこれがカタバミだと言うのも誰から教わったのか怪しい話である。

 

本日は本格的にこの三つ葉群を除去しようと、ガーデニングスコップを持ち出した。

地下茎ごとごっそり抜いて根絶やしにする作戦だ。

 

で、抜いてみた。


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 うわーお。

 

植物って不思議。

三つ葉の地下は大根のようになっている。信じられない。

弱い(仮)カタバミの根っこは小さな球根のようになっている。それに対して強い(仮)カタバミは地下が大根。その塊からライナーが走って新たな球根になっている。

 

謎草である。

 

カタバミの種類

インターネットにはウィキさんという何でも知っている人がいて、その人に尋ねてみたところ、カタバミにはいくつか種類があるのだと教えてくれた。

カタバミ

ムラサキカタバミ

・イモカタバミ

などである。

カタバミは葉が弱く黄色い花を咲かせる。

ムラサキカタバミは弱くて閉じた三つ葉をしている。そしてムラサキ色の花を咲かせる。イモカタバミの葉は強い。地下に塊根と呼ばれる「芋のようなもの」を作って増える。花の色はピンクである。実際にサツマイモも芋部分は塊根と呼ばれる。どちらも塊根植物という括りになる。

 

ふむ。なるほど。

 

掘り当てた(仮)カタバミは地下が大根のようになっているので、これが塊根というものであろう。となると、これは「イモカタバミ」なのか?

 

インターネットにはグーグルさんという知りたい情報をガイドしてくれる親切な方がいるのだが、グーグルさんに「イモカタバミ」の画像を探してもらったところ、どうも違うような気がする。我が家の大根的なカタバミは葉がもっと豪壮なのだ。

 

ところで、先程抜いたカタバミ

洗ってみた。土が取れて細部がよく見える。
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塊根から株が分かれている。大根部分は白くて少し透き通っている。地下茎というより…瘤?

 

 

■ベニカタバミについて 

グーグルさんに「カタバミで肉厚な葉をしているもので地下に塊根があるものを知らないか」と尋ねてみた。グーグルさんから多少肉厚違いな画像も提示されたが、画像のうちの一つに見覚えのある葉っぱがある。

 

これこれ、これだよ。

 

と、出てきた情報が更なるカタバミの亜種。

・ベニカタバミ

これもピンクの花を付ける。

園芸名はオキザリス・ブラジリエンシス。ブラジルから帰化した植物で完全に雑草化している。園芸家にとっては強害種、と書いてあった。

我が家での逞しい繁茂ぶりを見ると納得の話である。

 

花が咲くそうなので、抜くのは花が咲くのを待ってからとも思ったが、一度抜き出すと面白くなって、結局殆ど抜いてしまった。

 

沢山抜いたもののうち、塊根が大きなものを写真に撮った。それが先程の写真だが、もう数点を下記に掲載する。庭にはびこる雑草に興味のある諸兄は参考にされたし。

 

葉っぱの方から。

ベニカタバミの葉は肉厚で艶がある。茎が赤い。小葉の中央に明確な溝がある。
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塊茎の方から。

グラマーな大根型。

横向きに育った塊根もあるが、基本的に下へ向かって育つようだ。
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 うむ。でかい。このような大きな物が地下からごっそり現れる。なんとも爽快である。

 

雑草は奥が深い。そして果てしない。今日は小一時間かけて殆どの雑草を抜いたが、1週間後には再び繁茂してしまう。何度雑草を抜いても元に戻る。手強い。怖い。

 

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お話は以上です。

クローバーのような三つ葉の地下にこんな大きなかたまりがあるって不思議です。

 因みに咲いた花はこんなの。


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褒めるテクニック

日本の皆さんコンニチハ。

現代詩人(笑)の村崎です。

年度末って忙しいですねえ。

皆様、お疲れ様でございます。

 

さて、私はといえば

「褒めること」をテーマに掌編小説を書こうと思っておりましたが、スランプの真っ最中で一向に形になりません。

 

小説にすることは一先ず諦めて、創作メモとして褒めるテクニックについて思うままに書き記します。

 

以下です。

メモなので論理が随所で飛躍していますが、至らぬ点はご容赦願います。

 

ムラサキ

*************

 
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「何故褒めるのか」

チームにミスが続発する。これはコミュニケーションが不足しており、情報共有が出来ていないことが原因の場合が多い。野球で(よく知らないけど)センターとライトがお互いに「相手が捕球するだろう」とフライをお見合いする状態である。「オーライアウッアー(私が捕ります)」「アウッサー(お願いします)」と声を掛け合うことがコミュニケーションだ。

コミュケーションが不足する理由は単純である。仲が悪いから。仲が悪くて必要以上に喋ろうとしないのでコミュケーションが不足する。

 

語弊が生じるかもしれないが、必要最低限のコミュニケーション「だけ」を行うことは難しい。雑談、世間話、無駄話の延長上にふと現れる「そういえば」の中に必要な情報は存在する。言葉を少なくして端的にすべてを語れるほど我々は有能ではない。不必要と思われる情報の蓄積に真実が隠されていることもある。従って必要最低限の事務連絡では情報の共有は足りないのである。

 

仲の悪さはチームの作業効率にも影響する。仲の良くない人間のために積極的に働こうとする者はないからだ。

場合によっては足を引っ張ろうとすることもあるかもしれない。

それで成績が落ちていることもある。

失敗を誘発していることもある。

嫌いな人間が失敗するのは嬉しい、という負のスパイラルに陥ってしまう。

つまり些か極論ではあるがチーム力向上のためには「仲の良さ」が不可欠である。

そしてそれを作るために有効なのが(更に極論ではあるが)「褒めること」。

褒められて嬉しくない人間は(あまり)いない。褒められれば(多分)好きになる。好きな人のためには(人によるが)協力を惜しまない。

褒め言葉はチームの活性剤、人間関係の潤滑油。そしてチームの病巣を癒やす治療薬である。

 

例えば「悪い人」がいる。

性格が悪い。心根が良くない。

意地悪だ。

陰湿だ。

配慮や思いやりに欠ける。

 

 だが、考えて見よう。

 

悪い人であったとしても、彼の人は知人や友人には優しい。特に夜のお店のお嬢さんを口説いている時には別人である。頼り甲斐もあるかもしれない。男気を見せることもあるだろう。

つまり仲が悪いから悪い人なのであって、仲が良ければ誰だっていい人なのだ。

逆にどんなにいい人でも仲が最悪に悪ければ泣く子も黙る極悪人に変わる。

 

人間の行動原理は「快、不快」が大きく左右する。

一緒にいて気持ちよくなれる人は好かれる。つまり褒め上手は好かれる。

好き合うチームは強い。

褒め合うチームは強い。 

 

褒めねばならぬ。

今日にも誰かを褒めねばならぬ。

今すぐ誰かを褒めねばならぬ。

 

「褒めるテクニック」

1、極意は褒めないことにあり

 

褒め上手は褒めない。

 

突然のパラドクスで恐縮だが、あからさまな褒め言葉はわざとらしくて嫌われる。何か魂胆があるのではないかと警戒される。直接的な褒め言葉を伝えたいのであれば、入念な準備が必要である。

相手を褒めて友好な人間関係を作り、組織の活性化を図ることが目的である。

警戒されては目的に合致しない。

 

だから褒め上手は褒めずに褒める。

 

人間好きなものを前にすると目の輝きが変わる。瞳孔が開いて瞳の色が深くなる。

出会ったときに喜色を浮かべること、これだけで好意は伝わる。あなたに会えて嬉しい、あなたは素晴らしいということをボディランゲージで示すわけだ。これは言葉によらない褒め言葉とも云える。

 

2、それとなく褒めること

前述したように褒め言葉が追従とならないために、褒め言葉は控えめに発せねばならない。

 

感嘆する。これもまた褒め上手の妙手である。

 

例えばある人が絵を描いた。

それを観た客が一言唸って帰った。

それを見た別の人が失礼極まる所作であると怒ったが、そのある人が答えて言った。

本当に良きものを見ると人は言葉を失う。言葉をなくすことが最大の賛辞である。

 

直接褒めない褒め方もあるのだ。

 

また心のうちに現れる感嘆の言葉をぽつりと呟く。作品を見て「あはれものの見事なり…」などと独り言を呟く。

 

直接言われる言葉は嘘かもしれないと訝しがるが、独り言で嘘を付くはずはない、この思い込みを利用した技である。

 

 

3、人を介すること

面と向かって言われる言葉を人は疑う。嘘かもしれないと思う。

しかし人づての言葉は良いことも悪かりしことも疑うことはできない。

話を追うことに集中し、その人が如何にほの言葉を宣っているのか想像することに力を要する。だから真偽を疑う猶予がない。

つい盲信する。

 

従って其の人のいない所では大いに褒めるべきである。いづれ彼の人に伝わり、絶大な褒め言葉として開花する。

 

さる御仁が優れた思想家を探していた。優れた人は見つかったが、誰かに召し抱えられる気がない。御仁は彼の人を招いて食事をとらせた。世間話が精々で彼の人をおだてることもなく、何を考えているか分からぬまま黙々として散会となった。むしろ御仁は不機嫌に見えた。ろくな挨拶もないまま客人は帰途についた。

だが客人が帰った後、御仁は大いに客人を讃えた。これが客人の耳に届き、御仁の態度を気にしていた彼の人はいたく喜んだ。そこまで私を理解してくれる方なら、と彼の人は遂に御仁に召し抱えられることになった。

 

4、さり気なく褒める

挨拶を交わすような間柄となれば、直接褒めても良いだろう。しかし大いに褒めると訝しがられるので、さり気なく褒めることに努めるのが良い。

外見は人により良し悪しが分かれ、本人もよく気にする事柄なので、外見に関わることは余程仲良くならない限りしないほうが良い。

 

例話を上げる。

相撲取りの外見を褒めようとした時に

「重そうですね」

「太ってますね」

が褒め言葉になろうかと思うが、

それは本人にとってコンプレックスかもしれない。大きなお腹が小さくならないものかと日夜鏡を見てため息をついているかもしれない。つまり迂闊に外見は褒められないのだ。

 

本人が良し悪しを気にせぬ所を褒めるべきである。

ある人が洋装の釦の色を褒められた。それまで釦の色を気に留めることなどなかったが、褒められて気恥ずかしくも嬉しいものであった。

またある人が指のかたちを褒められた。誰に褒められたのかはすぐに忘れてしまったが、指を褒められた記憶だけは残り生涯の語り草になったという。

さり気ない褒め方は心に残るのである。

 

 5、当人が好きなものを褒める

誰しも好きなものの一つ二つはある。そして誰しもそれを大いに喧伝したいと考えるものである。

当人の好きなものを褒めることもまた良いことである。

自分のことを褒められる以上に嬉しい。

 

さる政治家が政敵と会食をすることになった。政敵である故に全く話が弾まない。

最後に政敵が話題に困ったのか、政治家の息子を少しだけ褒めた。子煩悩であった政治家は大いに喜び、後日に政敵であることを解消し合従を決意した。

 

以上は褒めずに褒めることの基本技である。

直接褒めるということは、これより上位の技術であるから褒めベタは、上述のことをよくよく心得るべし。

 

以上をまとめてそのうち小説を…。

まとまるかなあ…。

 

おやすみなさいませ。

m(__)m

 

 

 

 

 

ビーチコーミング、ボトルディギング

ビーチコーミングの話。

 

子供の頃から、地面ばかり見て歩く子だった。なんら比喩ではなくて。

だから落ちている小銭をよく拾った。

 

昔は小銭がたくさん落ちていた。

 

と、さも現代はお金が落ちていないように感じるのは私が地面を見て歩かなくなったからだ。

 

変なものをよく拾った。

珍しい、と思われる王冠。

小さな消しゴム人形。

出自のわからない金属の部品。

それらは宝物として子供机の引き出しの中に仕舞われた。

 

世間の謂で言えば「ゴミ」である。

この「ゴミ」を拾うという趣味がある。

誤解のないよう申し添えるが、こちらは比喩であって本当にゴミを拾う訳ではない。

 

最近は何にでも名前が付くもので、幼少のみぎりに地面ばかり見てある子供の如き所業も今や立派なホビーとして多くの愛好家がいる。

 

ビーチコーミング

beach combing

海岸を歩いて漂着物を観察・収集すること。

海岸には色々なモノが打ち上げられる。

貝殻とかガラス瓶とか。

なんて言えば聞こえは良いかもしれないが、それこそ文字通りゴミが集まる。

(これは比喩ではない)

大量の木っ端、洗剤容器、ビーチサンダル、カップラーメンの容器、ペットボトル、魚の死骸、発泡スチロール、卒塔婆…。

そう言ったゴミの中にまだ割れていない綺麗な貝殻、立派な流木、珍しい色のシーグラスが落ちている。

 

このようなものを見つけるとWKWKする。

すっかり大人になったつもりが、未だ自分も少年であることを知る。

 

これに類する趣味をもう一つ紹介する。

ボトル・ディギング

bottle digging

こちらは地面を掘って埋まっているガラス瓶を発掘すること。

昭和の御代はエコなんて概念がなかったので裏山に穴を掘ってゴミを捨てた。

そんなゴミ捨て場が今も残っている。

(彼らの専門用語でハケと呼ばれる。)

これを掘り返していくと過去の遺物が発掘される。当時の生活ゴミが数十年の時を経てアンティークに醸成されているのだ。

明治、大正、昭和の時代の液体容器といえばガラス瓶。

薬も洗髪料も飲料も何でもガラス瓶で売られていた。その造形は現代人の想像を軽く超える。

 

男子ならば地面を掘り返して化石や遺跡を掘り当てることを夢想したことが一度ならずあるだろう。

化石、遺跡を見つけることは難いだろうが、ハケを見つけて自分好みのガラス瓶を見つけることは比較的実現可能である。

 

掘り返されるものはアンティークであるかもしれないが、自らの少年の日の思い出もまた掘り起こされるのだ。

 

海岸線を散歩してシーグラスを拾った。其れを詩に興したことの後序に代えて。

 

 

 

因みに拾ったものはメルカリで売れる、と他のホームページに書かれていた。

参考までに。

 

 

現代詩「春の海とシーグラス」|ムラサキ|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/na8e007cb121f

名前のない死体たち(現代詩「ジョン・ドウ・スタア」跋文)

生きる死体。

は生きているのか。

 

最近は本当に死体が元気な場合がある。ジョージ・A・ロメロ監督(2017年他界)のゾンビシリーズだ。若い人にはテレビドラマのウォーキング・デッドの方がお馴染みか。

(ゾンビ)という存在が時々社会現象となるのは、我々の社会が定期的に自動律において不安を覚えるからであろうと、私には思われる。

(ゾンビ)は人間であって人間でない。だが、本当に人間でないかと言うと究極的に人間である。

 

(本家本元のゾンビはタヒチ島ブードゥー教の司祭が作り出す催眠人間のことであるが、これは薬物で催眠されているだけなので本当に生きている。)

 

我々が人間性を喪失して、つまり死んで、尚残る人間性への希求が(ゾンビ)であってそこに我々は人間に対する希望を見出したいのだ。

ゾンビ映画に登場するゾンビは共食いとも言うべきカニバリズム嗜癖を有するが、これは絶望を表出するための単なる恐怖映画的な装置であって、本質は愛である。

 

愛である。

 

等と言うと、さっぱり意味が分からないだろうから、申し加えるが

本来愛し合うべき人類同士が殺し合ってきたのが人類の歴史で、つまる所、戦争の歴史である。

何故、人類は殺し合うのか。

何故、人類は筆舌に尽くし難い残虐行為を行うことができるのか。

果たして人類の性は悪であるのか。

この性悪の部分がゾンビとなった死体たちによる残虐性である。

ゾンビとなった母親は子供の頭を齧るわけであるが、これは人類同士、時には同じ民族同士殺し合ってきた歴史の暗喩である。

が、人類の歴史はそればかりではない。

 

ゾンビについて語り出すと長くなるので、以降割愛。

 

 

ともあれ、ゾンビ映画は人間の性善説への希望なのである。

 

と、前置いた所で本文の主題は全く異なる所にある。これまで書き連ねた駄文については本文に関係ないのでご容赦願いたい。

 

精彩を欠いた人を「生きる死体」と直喩する。

勿論、その人は生きており、死んでいない。ソンビの話が長かったので、読者様は解釈に混乱を来しているかもしれない。ゾンビの話は忘れて欲しい。

 

例えば、私。

は、世界経済に何一つ影響がない俗人な訳であるが、このような状態を「生きる死体」などと呼ぶ。つまり私は医学的に生きているか死んでいるかを問わず「死体」だ。

 

そして私は世界経済的に名前がない。

世界経済を一つの人体に喩えるなら、私はどこかの器官の一細胞であって毎日、呼吸と発熱を繰り返している。

出来うるなら指先の皮膚細胞とか、そんな些末な細胞であるといい。気楽だし。内臓系は酷使されてる気がするから嫌だ。なんかネバネバしてるし。

 

話が逸脱した。

人体を統括する意識は、細胞の生死については自覚がないので私という一細胞がいつ生まれていつ死んだのかということに無知である。

 

ということで、超訳的に、或いは詩的に解釈して私は「名前のない死体」である。

(読者様はこのような詩人的な発想の飛躍を温かい目でお見守り下さい。)

 

ところが今や実は世界を牽引するのはこのような「名前のない死体」たちである。

名前のない死体たちは日々情報を世界に対して発信し続ける。

 

この名前のない死体たちのツイートに世界経済は翻弄される。

「#me too」 

で拡散される弱者多数の意志は奔流となって世界経済の大河を遡る。一人の発信が集団となり無視できない勢力となるのだ。

「me too」はハリウッド映画界に蔓延するセクシャルハラスメント被害への同調運動であるが、今後はどのような問題も同様に拡散されていくだろう、

権力がメディアを統制しても、このツイート、リツイートの電気的な速度には追い付けない。電波は瞬く間に拡散する。

 

世界経済の首脳たちにとっては全くイレギュラーとも言うべき、この叛乱の火種は世界人口の誰もが持ち得る。つまり叛乱の火種は世界人口の数だけ散乱している。

 

 名前のない死体たちによる革命の時代。

「革命」ついては賛否両論があるだろう。アンチキリストによるデマゴーグかもしれない。

だが、この賛否両論すら収束しない。

#me tooとそれを応援する人たち。

それに反対する人たちと国家権力。

応援することは必ずしも同一ではない。

反対することが必ずしも体制ではない。

四者は全く異なる立場なのだ。

 

アメリカで身元不明の死体のことを「ジョン・ドウ(John Doe)」と呼ぶ。

女性なら「ジェーン・ドウ(Jane Doe)」。

 日本で言うところの「名無しの権兵衛」である。これは連邦司法制度にも使われていて匿名の原告を「John Doe」匿名の被告は「Richard Roe」などのように使われる。

 

来る。賛否も生死も定かでない混沌とした時代が。名無しの死体即ちジョン・ドウたちが救世主のように世界を牽引する時代が。

来る。

 

そんな詩を書いたことの後序に代えて。

 

 詩の本編はこちら。

現代詩「ジョン・ドウ・スタア」|ムラサキ|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/nebda 

 

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長らく三部作であった「ゾンビシリーズ」は後年、三部が追加され六部作になった。ゾンビが怖い。という映画ではない。ゾンビと人間の戦争である。人間は近代兵器を以てゾンビに抗う。それは時に大航海時代に南米を鉄砲で蹂躙したスペイン人フランシスコ・ピサロに似ている。