恐怖についての雑感(伝承異聞 自動車跋文)
怪談を読みながら、一体恐怖の正体はなんだろうと考える。
例えば一人で車に乗っていて、ふと気付くと助手席に誰か乗っている。そんな目にあえば怖いことだろう。
これは何処からが怖いんだろう?
車の運転は怖くない。
助手席に見知らぬ「物」があっても多分怖くない。例えば信楽の狸が置かれていても怖くない。
それが人なら怖い。
多分虎が乗っていても怖い。
おばけでも怖い。
猫は多分怖くない。
カピバラも怖くない。
以上から考察を加えると、自分の身の危険が恐怖を呼び起こしているような気がする。
街で見知らぬ人に擦れ違っても怖くないが、見知らぬ人が突然部屋の中にいれば怖い。その誰かが乱暴するかもしれない。
突然部屋にいるような非常識、非現実の輩なら危害を加えるような理不尽も為すかもしれない。
なるほど。
身の危険を感じる話。
トイレ、車、お風呂、階段、廃墟と怪談は人が無防備になる所に多く発生する。それも危険にまつわる感性かもしれない。
ならば他に怪談の生まれそうな場所や設定がありそうだ。
身の危険も生命の危険でなくても、仕事上の危険やパソコン関係の危険など、リスクはあちこちに散在する。
例えばパソコンが突然初期化するなんてどうだろう?これはかなり怖い。
でもパソコンを扱わない人から見たら怖くないのかな。
高級な指輪を無くすなんて話も怖いかどうかは人それぞれだし。
伝承異聞「自動車」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n4242a154a934
短編小説「ルーム」作品解説
短編小説「ルーム」を読まれた方は意味が分かりくくてモヤモヤするかと思いますので、ネタバレを書きます。
全くもって蛇足です。
書く人が解釈を読者に預けられずに、自ら冗長に語ることって良くないことと思いますが、
この小説を読む人は世界中で10人いるかどうかだし、ましてや読んで尚且つこのページにたどり着く人は皆無だろうから、
まあ良いか。
ネタバレは以下です。
→小説はこちらのリンクからどうぞ。
https://note.mu/murasaki_kairo/n/nfe9e6afc17a8
「解説」
女の子の語り口調でお話が進んでいきますが、話が進行するに連れて現実と不整合を起こしていきます。
不整合というのは突然、女の子の部屋に現れる不審人物たちのことですね。女の子がすぐに追い出してしまうので事なきを得ていますが、見ず知らずの人間が部屋に突然現れるのは非現実的です。
そして最大の不整合が別れた彼氏がおじいちゃんになって帰ってきたこと。
彼氏がおじいちゃんなら、女の子もおばあちゃんになるはずですが、年を取ったように見えません。
つまりこの女の子は既に人間ではないのです。彼氏と別れてから女の子は死んでしまったのでしょう。死んで部屋に取り憑く御霊となって、平和に暮らしています。
死んだ自覚は無いようですね。
部屋に現れる人々は正式に部屋を賃貸した人々だと思いますが、女の子に追い出されてしまいます。可哀想ですね。
そこに現れたのが年老いた彼氏です。
もしかしたら問題物件であることを知っていたかもしれないし、察しがついていたかもしれません。
女の子が御霊となってここに残っていたことを知ります。
そして二人は元通り一緒に暮らし始める訳です。ハッピーエンドというわけです。
これが、このお話が意味するところの半分。もう半分のトリックが隠れていますが、そちらの方は大したお話ではないので説明は割愛します。
もしこの文書を読まれた方がいたら駄文へのお付き合いありがとうございました。
猫と翼について(猫だって翼があれば飛べる跋文)
猫と翼について
翼のある猫の写真を見たことがある。およそ飛べそうな翼ではなかったが。
もしかしたらフェイク写真だったかもしれない。
黒い猫だった。
そう言えば「虎に翼」なんて諺もあった。
意味合いは「強くなり過ぎる」。
虎のために翼を作ることなかれ。
危険な虎に翼を与えれば最悪の事態となる。虎にとっても強くなり過ぎれば恐れられ誅せられる。均衡を崩す力は双方に不幸となる。
猫に翼はどうであろうか。
中島みゆきの「あした」という歌がある。そこに出てくる猫はみすぼらしい痩せっぽっちの猫である。どちらかと言えば猫は捨て猫とか子猫とか弱いもののイメージがある。
雨に打たれてボロボロになった野良猫は人知れず死んでいく。猫の生活圏は広いようで狭い。縄張りがあるので弱い猫はどこに行っても疎んじられ追い出される。
もし猫に翼があれば、そのようなどん詰まりから抜け出して明日に向かって飛べるのに。
でも猫に翼はない。
飛べないし何処にも行けない。
猫だって翼があれば飛べる|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n9db5e931586d
私性と俳句(俳句日記「初詣」跋文)
「初詣 僕たちは同じものを見ている」
「私」が詠まれる俳句はあまりないように思われる。
(冷たい)などの感覚や(うれし)などの感情は詠まれる。
だが、私や僕など一人称を使う俳句はない。
俳句の視点がそもそも「私」を中心に展開しているからで、それは「私」が「私」自身を見つめることができないからであると言える。
そう言った意味合いも含めて俳句はカメラ的である。
「私」がファインダーを通して見る写実の中に情緒がある。
ところが写真のあり様が変わってきた。ファインダーを通して「私」がいる。自撮りと呼ばれる。
ならば逆説的に「私」を取り扱う俳句が増えても良いわけで、俳壇からは縁遠いとは思われるがそのような風潮が現代的であると言える。
俳句日記 初詣|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n81eebf05b9a9
カッパドキア(短編小説 岩窟の村跋文)
穴居人たちがカッパドキアに暮らしていた。穴居人などと呼べば如何にも非文明的な響きだが、今やカッパドキアの穴居生活はインフラが整備されて現代的なモダン・ライフである。
カッパドキアは砂岩の織りなす地形で、長い年月をかけて風が岩を削り奇岩が目立つ。
人びとは砂岩を削りながら街を作った。街は蟻の巣のように地下へと広がり、地下都市カイマクルには2万人の人々が地下都市に暮らしていたという。
カッパドキアに行きたい。
幻燈紀行「岩窟の村」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/ncd8e74c22802
人を愛するということ(愛を与ふるロボット跋文)
僕には人を愛するという感覚が欠落している、気がする。
他人に興味がない、とも言える。
その癖、自分は愛されたいと願っている。
愛というものは恐らく相互のものなので、多少なりとも人を愛することをしなければ、自分が愛される筈もないので、この性格には難儀している。
「愛を与ふるロボット」という作品の中で、愛が欲しい科学者という人物が登場するが、彼が欲している愛は亡き妻からの愛であり、ロボットから得られるものではない。
科学者はいずれロボットを憎悪するだろう。
ロボットがそれに気付いたとき、彼女は自ら作動を止めたのである。
科学者が死んで彼女は再び動き出した。これは愛を与える、という任務をこなすためである。しかし、科学者は死んでいるから命令自体が無効化している。
にも関わらず 愛することを全うしようということは彼女の自由意思であり、それこそ愛以外の何物でもない。
彼女は機械にして無償の愛を為したわけである。
多かれ少なかれ人は自らの損得を省みない愛の無償性を有するように思われる。
情が深い、とか母性本能とか、そういう言葉が近い気がする。
そういう情動は美しい。
僕にはそういうものが欠けている、気がする。そんな葛藤を抱えて生きているので、僕の作品には自己犠牲とか無償の愛とか、もしくはそのアンチテーゼである孤独とかそんな類のものが必然と多い。
読者諸兄の愛の形は如何なるものだろうか?
諸兄が良い愛に巡り合うことをお祈り申し上げる次第である。
絵のない絵本「愛を与ふるロボット」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n85b88287e3c4
死者との邂逅(夜のプールと古代生物 跋文)
死んだ祖父に会った時、思ったよりも活き活きしていて僕は「なんだ」と間の抜けた感想を持った。「なんだ」が何を意味するのか、世の中のモラルに照らし合わせて説明できる自信がないので詳細は割愛する。
ともあれ病院で死亡診断の済んだ死体に僕は面会したのだ。10年も昔のことである。
「死んでいても良いから会いたい」という感傷を理解したのもそのときであった。尤も「会いたい」という程、強い気持ちではない。生前と同じく、「そちらが会いたいなら会っても良い」くらいが正しい。
時間とともにこの気持ちは少しだけ変化して今は「少しなら会いたい」に変わった。
恋人が死んだ時なら尚更であろう。
冥界に死んだ恋人に会いに行くのはオルフェの物語、それにイザナミイザナギの物語。
古来より受け継がれた正直でロマンチックな願望なのだろう。
短編小説「夜のプールと古代生物」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n90580fbc412b