ムラサキの文学日記

短編小説、現代詩、俳句、短歌、随筆

チャーハン大賞に応募しようとして辞めた話。

こんにちは村崎です。

本文は「味の素 チャーハン大賞」に応募しようと思い起稿したものです。

文章は完成しましたが、なんかアレなので応募を辞めました。そう、なんかアレなんです。

応募はしませんが勿体無いのでブログにアップして供養とします。

お暇な方は宜しくお付き合い下さい。

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「食卓を囲む(チャーハン編)」

「ツー」と言えば「カー」と返る間柄もあるなら、「チャー」と言って「ハン」と返る間柄があっても良いね。

それが恋人なら尚更良いね。でも男同士でも良い。親子でも良い。
気持ちが通じるということは気持ちが良い。

チャーハンは
「炒」と「飯」のニ字に分かれる。
母の作るチャーハンは「飯」であって「炒」がない。

具材はね、卵と人参と玉ねぎ。そしてハム。玉ねぎから出た水分で出来上がったチャーハンはしんなりしてベタベタ。
味付けもぼんやり。

それがチャーハンだと思っていたし、それはそれでまあまあ美味しかった。どちらかと言えば好きだった。
しかしながら少年であった僕も反抗期を迎えて、いっぱしの口をきくようになって外にいる時間が増えた。家にいるより友人たちと外にいる方が楽しかった。まだ高校生であった僕たちの遊び場といえば近所の大衆的なデパートのゲームコーナーで、外食といえば大衆的なデパートのフードコートだった。
当時ラーメンが230円だった。
チャーハンは170円。

美味しかった。
魔法の味だった。
今考えると、化学調味料で整えられた出来合いの味だった。繊細な風味なんてそっちのけで化学調味料と塩と油で過剰に調味されたジャンクフードだった。
でもギャングエイジな僕たちにとって仲間と一緒に食べるご飯は格別だった。

年とともに外食が増えて、もっと美味しい店にも行くようになって、ますます母の料理とは疎遠になった。

家のフライパンで作るチャーハンは火力も足りず狭いフライパンの上で少しくかき混ぜるのがせいぜいで、お店のように強火力でパラパラに仕上げることなんてできない。
と、気付いたのは僕もいい加減大人になってからだった。

いい加減大人になった僕は結婚していて子どもがいて、家から少し離れた所に住んでいて、時折、母にとっては孫にあたる子どもたちを連れて、子どもたちにとっては祖母となる母のところに遊びに行く。

老いた母は既に台所になど立てぬので、僕が晩ごはんを作る。

その行程はかつて母の作った料理をなぞる行為で、やっぱりぼんやりした味付けのぼんやりした料理が並ぶ。

時にはチャーハンだって作る。
具材は卵と玉ねぎと人参、ハム。
冷蔵庫の中にはそれくらいしかない。
油はサラダ油。
玉ねぎから水分が出るのでチャーハンはしんなりしてベタベタになる。
チャーハンの作り方なんて教わった覚えもないのにかつてのチャーハンと同じ味になる。

結局チャーハンが好きなんだ。
僕も。
母も。
子どもたちも。
きっと今までも。
これからも。

一人前になるということは親の庇護からいち早く外れて一人暮らしをすることだと、かつての僕は思っていた。
だけれども本当に一人前になるということは、自立して、またその家に、老いた親の所に戻ってくるということだった。

親不孝癖が抜けず、そんなに沢山は行けないけどね。

ご飯どうする?
「チャー」と言えば
「ハン」

気持ちが通じるって良いことだよ。

 

(エッセイ「食卓を囲む」チャーハン大賞応募作品 村崎懐炉

#チャーハン大賞 #エッセイ #チャーと言えばハン