ユリイカ201805号「今月の作品」で佳作を頂いたこと
ハガキ職人の村崎です(笑)
すっかりブログはご無沙汰になっておりました。詩と評論の文芸誌「ユリイカ」の「今月の作品」に毎月投稿をしております。
この度、投稿した詩に佳作を頂きました。ありがたいことです。選者をしておられる水無田気流先生に拙作を過分に評価して下さったこと深く感謝いたします。
また日頃ブログで温かに交流して下さる皆様にも同じく感謝を尽くすところでございます。
さてこれまでに評価された二作から「詩の何たるか」が見える気もしますので今日はその概略についてお話します。
少し長いお話です。単なる独り言ですので、読み飛ばして下さって結構です。
「詩のなんたるかについて考えてみた話」
評価を頂いた二作(「トイレタンクから水がチョロチョロ」「春の海/シーグラス」)はどちらも「日常」がポエジーへと転移していくことで、詩となっていたように思われます。
今回の作品「春の海、シーグラス」の中で「私」は海でシーグラスを拾います。シーグラスは単なるガラスの摩耗品です。しかし私はそれを北洋の女の子の涙が魚となって泳ぎ着いたものだと空想しました。
ガラスの摩耗品が、ポエジーに転移したわけです。「喩え」の発見が詩の誕生に繋がったわけです。
これは「詩の役割」であると言えるかもしれません。
例えば野辺に生える変な形の草に「蕗」という名前があることを知り、煮浸しにして食べられることを知り、更に醤油と砂糖で煮詰めて伽羅蕗を作ることを知り…。事象の持つ意義や意味を自然科学的に深めていくことで人生は豊かになります。蕗を食べることを知っているか知らないかで春の楽しみは大きく変わるわけですからね。
人文科学の分野でも人生を豊かにすることができます。蕗の形から、その下で雨宿りをする小さな人を夢想し、事物の新たな意味を作ることができます。そんな空想を楽しむことで人生を豊かになります。
そんな小さな人たちを夢想すれば、蕗を見る度に楽しくなりませんか?
詩の働きは「蕗」の下にいる小さな人を読者に見せることにあるのではないでしょうか。その読者が今後、蕗を見て少し楽しくなることが詩人の務めなのかもしれません。
彩りのない日常を異なる角度から眺めて修辞していくことで薔薇色の日常として再構築していこう。二回目の佳作を通じて、そのような詩論を考えてみました。
サン=テグジュペリの星の王子様にもありましたね。
「この絵は何の絵に見えますか?」と。
その挿絵は不格好な帽子の絵にしか見えません。でも本当はその絵は象を飲み込んだ恐ろしい蛇の絵なのです。そのような空想力の発見に触れると、もうそれが恐ろしい蛇の絵にしか見えません。
「それでは星は何に見えますか?」
「小さく瞬く星のどれかに星の王子さまがいて小さな不安と喜びを繰り返しながら毎日を暮らしているのです。」
そう思うと星を見ることが楽しくなります。
そんな空想の発見を促すような詩をまた書いてみたいと思います。
(ユリイカで佳作を頂いた御礼に代えて「詩のなんたるか論」村崎カイロ)
末尾に
長い独り言を読んでくださったブログの皆様に重ねて御礼申し上げます。今後とも宜しくお付き合い下さい。
現代詩「春の海とシーグラス」|ムラサキ|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/na8e007cb121f