ビーチコーミング、ボトルディギング
ビーチコーミングの話。
子供の頃から、地面ばかり見て歩く子だった。なんら比喩ではなくて。
だから落ちている小銭をよく拾った。
昔は小銭がたくさん落ちていた。
と、さも現代はお金が落ちていないように感じるのは私が地面を見て歩かなくなったからだ。
変なものをよく拾った。
珍しい、と思われる王冠。
小さな消しゴム人形。
出自のわからない金属の部品。
それらは宝物として子供机の引き出しの中に仕舞われた。
世間の謂で言えば「ゴミ」である。
この「ゴミ」を拾うという趣味がある。
誤解のないよう申し添えるが、こちらは比喩であって本当にゴミを拾う訳ではない。
最近は何にでも名前が付くもので、幼少のみぎりに地面ばかり見てある子供の如き所業も今や立派なホビーとして多くの愛好家がいる。
beach combing
海岸を歩いて漂着物を観察・収集すること。
海岸には色々なモノが打ち上げられる。
貝殻とかガラス瓶とか。
なんて言えば聞こえは良いかもしれないが、それこそ文字通りゴミが集まる。
(これは比喩ではない)
大量の木っ端、洗剤容器、ビーチサンダル、カップラーメンの容器、ペットボトル、魚の死骸、発泡スチロール、卒塔婆…。
そう言ったゴミの中にまだ割れていない綺麗な貝殻、立派な流木、珍しい色のシーグラスが落ちている。
このようなものを見つけるとWKWKする。
すっかり大人になったつもりが、未だ自分も少年であることを知る。
これに類する趣味をもう一つ紹介する。
ボトル・ディギング
bottle digging
こちらは地面を掘って埋まっているガラス瓶を発掘すること。
昭和の御代はエコなんて概念がなかったので裏山に穴を掘ってゴミを捨てた。
そんなゴミ捨て場が今も残っている。
(彼らの専門用語でハケと呼ばれる。)
これを掘り返していくと過去の遺物が発掘される。当時の生活ゴミが数十年の時を経てアンティークに醸成されているのだ。
明治、大正、昭和の時代の液体容器といえばガラス瓶。
薬も洗髪料も飲料も何でもガラス瓶で売られていた。その造形は現代人の想像を軽く超える。
男子ならば地面を掘り返して化石や遺跡を掘り当てることを夢想したことが一度ならずあるだろう。
化石、遺跡を見つけることは難いだろうが、ハケを見つけて自分好みのガラス瓶を見つけることは比較的実現可能である。
掘り返されるものはアンティークであるかもしれないが、自らの少年の日の思い出もまた掘り起こされるのだ。
海岸線を散歩してシーグラスを拾った。其れを詩に興したことの後序に代えて。
因みに拾ったものはメルカリで売れる、と他のホームページに書かれていた。
参考までに。
現代詩「春の海とシーグラス」|ムラサキ|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/na8e007cb121f