ムラサキの文学日記

短編小説、現代詩、俳句、短歌、随筆

金子兜太氏のご冥福をお祈り致します

人体冷えて東北白い花盛り

句集「蜿蜿」金子兜太1968年

 

金子兜太氏がご逝去されました。

浅学の私は先日、宗左近先生の著した現代俳句の入門書を読み、改めて俳句の素晴らしさに感じ入っていた所でした。

 

その書にはやはり金子兜太の句が紹介されており、その凄まじさに振戦致しました。

 

冒頭の句も其処に紹介された句です。

 

(注意)以下の解釈は全くの無学である私の妄想です。金子兜太氏の俳句を基にしたファンタジーです。この解釈にあたり、私は何一つ、本俳句の背景知識を学んでおりません。竹取物語を読んでUFO飛来説を繰り出すが如き、空想評論であります。聡明な読者様にはファンタジーを楽しむ心の余裕を持って以下をお読み下さることお願い申し上げます。

詰まるところ、世間の真実はいざ知らず私にとって真実は以下、ということになるのです。

 

人体冷えて

東北

白い

花盛り

 

何故、人体は冷えているのでしょうか。

宗左近先生の影響で私は「白」という色が骨の色、死体の色にしか見えなくなっております(笑)。

そもそも「人体」とは誰なのでしょうか。

何故

「君冷えて」や「我冷えて」と発句を通常の五音にまとめることをせず「人体冷えて」と七音に破調させてまで、「人体」という客体表現にこだわったのでしょう。

 

白の暗喩と相まって、

私の目にはもはや、

名もなき死体が花冷えの中に横たわっているようにしか見えません。

 

(妄想開始)

そう、

この死体は名前がないのです。

生前は名乗る名前もあったでしょう。

でも今は失われました。

もう、故人のことを知っている人間はいないからです。

縁故者も既にして全て死に絶えているからです。

縁故者が次々死んでいく哀しみを一人で背負い、「人体」さんは生きました。

そして死んだのです。

彼を弔うものは誰もいません。

彼に手を合わせるのは市営の焼却場の職員だけです。

焼却場の外には花が満開です。

白い花と言うからには

桜ではないでしょうね。

桜なら花の一字で足ります。

梅でもないでしょう。

梅も梅、白梅と呼べば済みます。

辛夷(こぶし)でしょうか。

花見、梅見と人が集まることもなく、ただ咲くだけの花なのでしょう。

その人を寄せない花々はかつての縁故者たちの御霊かもしれません。

一人生きたその「人体」さんを幽冥から見守り迎えに来た花々なのでしょう。

 

金子兜太氏の目の前にそのような死体が現前していたかは知れません。

恐らく死体はありません。

しかし二句が「東北」とあります。

東北に於いて、金子兜太は死者たちの幻影を見たのかも知れません。

東京のように一人でいることが当たり前の都市ではありません。

東北は人間と人間がつながっています。

人間を一人にしません。

にも関わらず一人となったことは、より東北の厳冬が身に沁みたことでしょう。

縁故者が死に絶えた後、厳冬の中に

一人で生きて、生きて、生きて

そして死んでいった

物言わぬ死者たち

いま彼らにも春が訪れたのです。

 

金子兜太がこの句を詠んだとき、彼は自らのダダイズムを物言わぬ孤独な死者に重ねたのかもしれません。

 

私にはこの句が白い花の咲く中で死者と祖霊が対峙するという、凄絶な俳句に思えるのです。

人一倍安穏としている私の喉元に、真実といの切っ先を突き付けられた思いです。

まだ、平和じゃない。

まだ、平和は訪れていない。

現世に残ったお前はこれからどうするつもりだ。

死者が朽ち果てながら訴えかけているように思えるのです。

 

(妄想終了)

 

手前勝手なお話を失礼致しました。

皆さんはどのように思われますか?

 

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言葉は死なない。

氏の俳句、そして氏の問いは今も強迫的に我々に迫ります。

 

金子兜太氏のご冥福をお祈り致します。