ムラサキの文学日記

短編小説、現代詩、俳句、短歌、随筆

経験とことば(俳句日記「かはうそ祭」跋文)

経験を言葉に変える、という話。

 

「すべては語られてしまった。」

フランスヌーベルバーグの騎手ジャン=リュック・ゴダールの言葉である。

すべては語られてしまった。

本当に誰も知らない物語なんて最早ない。創れない。

 

俳句という十七文字文学においてもしかり。たった十七文字の組み合わせで星の数ほど生まれた俳人たちが語らなかったことなど一つもない。

と、思う。

 

そうした中で我々は文学的なステレオタイプと折り合いをつけながら、新しい書物を輩出していかねばならない。

後の世になればなるほど句作は難しくなるのである。

 

「鳴きはせぬ蛍を柩に忍ばせて」

詩人宗左近の作った俳句(本人は謙遜して中句、と呼ぶ)である。

 

この俳句世界を目に浮かべると

蛍の光は月の光に似て

月の光は屍体の色に似る

澄明の中で

鳴かない蛍が秘した

鎮魂の嗚咽は

我の中に蟠っている

蛍は柩の中に隠れてしまった

本当に蛍はいたのだろうか

本当に屍体はあるのだろうか

もうそれも分からない

ここにあるのは

月と嗚咽を堪える私だけ

このような映画的光景が広がる

 

宗左近は風光明媚を詠まない。

詠んだとしてもそこに詠まれたものは

風光明媚に暗喩された

宗左近自らの情念である。

 

同じ情念を私が詠んでも

例えそれが一言一句変わらぬ句であったとしても、それは虚飾であって、鸚鵡の口真似の如き言葉に価値はない。

 

言葉はそれを吐く人間がいて初めて

言葉となる。

 

それが本当の言葉だ。

 

逆説的に言えば

日々量産される十七文字文学の作品群で、相互に全く同じ作品があったとしても、もしその真情が真実であれば、心のうちに生じる真実であれば、その言葉はその俳人の人となりを知るための価値がある。

 

どのような句作も評論もステレオタイプであるなら 、唯一の独創は「私」であって私のヒトゲノムと後天的学習はかつて存在し得ない唯一である。

 

私は時折思い出したように日記をつける。そこに下手な俳句を添える。

かつては虚飾に満ちた俳句(宇宙とか世界とか)を作ったものだが、最近は手のひらに乗せて転がるような小作品ばかりになった。私の中に宇宙は無かった。その私が壮大な宇宙は詠めない。

私の中にあるのは矮小な私だけ。

私はその矮小を詠むことしかできない。

 

経験を言葉に変える。

私にできるのはそれだけ。 

 


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俳句日記「かはうそ祭」|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/ndfd20e3734db