蟻の話(短編小説「海蟻」跋文)
蟻の巣の奥底には女王蟻がいる。働き蟻たちは女王蟻と子供の蟻たちのために働いている。
僕はこの話から蟻の王国のようなものを想像していた。
女王蟻は赤いビロードのソファにもたれかかって、毛皮の常套に身を包んでいると思っていた。
蟻の王国は女王のために動き、女王は毎日上質の肉と甘いシロップのかかった砂糖菓子を食べる。
夜は舞踏会を催す。
しかし、考えてみると蟻の巣の奥にはガラス製のランタンもないし、大きな開放窓もない。つまり暗いのである。
僕はこの事実に戦慄した。
真っ暗な穴蔵の底にいて女王は何をしているのだろうかと、考えてそこでまた戦慄した。
女王は産卵をしているのだ。
産卵しかしていない。
つまり執務官と王国の行く末を案じることもないし、恩恵的な救貧事業を行うこともない。
ただ、囲われて産卵するだけだ。
数年前に政治家が「女性は子を生む機械」という失言をして国民の反感を買ったのだけれど、女王蟻はまさにその存在だ。
女王蟻のイメージが大きく変わってしまった。真っ暗な中でひたすら産卵させられる機械。どちらかと言うと働き蟻たちに飼育されている、が近い気がする。
このシステマティックで情緒にかけるイメージは昆虫世界のグロテスクさの象徴に思われる。
女王蟻は産卵する機械。
働き蟻は働く機械。
兵隊蟻は戦う機械。
ちなみに働き蟻も兵隊蟻もみんな雌だ。
雄蟻はいない。
ある日突然女王蟻は新たな女王蟻と雄蟻の卵を産む。新たな女王蟻と雄蟻たちは育児されて蛹になって、翅をもった成体に羽化する。
そして彼らはある日、上空高く舞い上がる。
結婚飛行と呼ばれるもので、新女王蟻と雄蟻が交尾する儀式だ。
その儀式が終わると雄蟻はみんな死ぬ。
そして女王蟻は巣を作り産卵する機械になる。
すべてが機械的で、ロボット的だ。
個人の尊厳とか、自我とか、幸福追求なんてものがまるでない。
幸も不幸も関係なく決められたことを淡々とこなすだけ。もしかしたらルールに従っているときにだけ分泌される幸福ホルモンとかがあるのかもしれない。
蟻が突然自我に目覚めてしまったら絶望しかないだろうな。
周りは脳内麻薬中毒者の物言わぬ同僚たち。
奥底の産卵工場では次々子供が量産されて。
規律から外れようとすると謎の頭痛に襲われる。同僚たちから粛清を受ける。
なかなかぞっとする設定だ。
生まれ変わるときに昆虫になるのはやめておこう。
海蟻ウミアリ(海洋性昆虫フィールドノート)|murasaki_kairo|note(ノート)https://note.mu/murasaki_kairo/n/n49e50b8a2214